木の枝が当たり、頬に小さな傷を作っていく。普段ならすぐにでも痛いと思うはずなのに、不思議と痛みを今は感じない。それよりも今は、あの男から逃げたい。ただその一心で。
森からもれてくる光は微かで
の影を作ることも無い。あの場所にいた時男達の顔ははっきりと見えた。まだ日は高かったのだろうか。暗い森の中では今が昼なのか、夜なのか、あれからどれぐらいの時間が経っているのかすら分からない。
「Ha!」
「っ!!」
後ろから迫る蹄の音と男の声。
よくよく考えれば馬と人、かなうはずは無いのだ、その脚力に。どんなにこの二本の足を急がせても、四本の足で大地を蹴る馬から逃げられるはずも無い。それでも逃げる。自分のいた世界にいたときには思ったこともなかったこれは、生存欲。
ただ我武者羅に走り続ける。木々の間を、岩の隙間を。
生きていたい。
死にたくない。
背中に迫った音に気がついた時にには遅かった。何かが自分の腕に絡みつき、引き上げる。足が地を離れ視界がぐるりと回る。
「I caught it!案外あっさりしたもんだな」
聞こえてきた声には苛立ちも怒りもない。そこにあるのは実に楽しげな声だった。
ぐるりと回った視界が着地した先は、男の目の前。向かい合うような体勢になり、
の思考が一瞬止まる。
「よお、tagはもう終わりか?」
上から降る声に止まった思考が動き出す。
殺される、と。
「っ……いやああああああああああああああああああああああああ!!!」
自分に引き上げられ向かい合うように馬上に座らせた女は、なんとも素っ頓狂な顔をしていた。間の抜けたような、呆然としたような、そんな顔を。
よくよく見ればこの女、なんともおかしな格好をしている。打掛や襦袢には到底見えない、見たことも無い着物に足に綺麗に沿った袴のようなもの。両手で握り締めている弓も、政宗が見たことも無い素材で出来ているらしかった。
その容貌と格好に政宗は先程の合戦場で兵士達が呟いていた妖という言葉を思い出す。
(コイツが例のghostか?)
じぃ、と片目で見つめてみる。何処かの忍が相手を霍乱するための策なのか、本物の妖か。
政宗は考える、これは一体なんなのかと。そんな政宗の思慮は、女によって阻まれる。突然叫び声を上げた女が何を思ったか持っていた弓を振り回し始めたのだ。
こんな狭い、体と体が触れ合いそうな距離で自分に当たることもいとわないと言う様に弓を振り回す。
「ちょ、おい、おま……」
不規則に襲ってくる弓の間違った使い方の攻撃を避けながら目の前で自棄にも見えなくも無い顔を見る。
(本物のghostにしちゃ風情もクソもなくねえか?って危ね!)
弓が政宗の眼帯を掠める。
一瞬刀に手をかけ、抜きかける。
「あー、クソ!おい。ちょっと待て、落ち着け!!」
「やだ、死にたくない、やだああああああああ!!!」
「Shit!!」
政宗の声など耳に入ってない女は更に弓を振り上げ抵抗を見せる。これには流石の奥州筆頭もどうしていいか分からず、つい。
「あ」
刀にかけていた手をそのまま女の鳩尾に拳を叩き込んでいた。
*****
真っ暗な闇の中をただひたすら走った。後ろからあの男が来る、自分を殺しに。
走って、走って、走って。
けれどどんなに足動かしても前に進めない。もがくように腕を伸ばしても空を切り、何もつかめない。そして振り向くと、あの男がいた。眼帯をし、鎧をつけた男が口の端を吊り上げ六本差したうちの一本を抜き
に向かってひらりと舞った。
「わああああああああああああああ!!!」
「うおっ!」
自分の体に刀が埋まる瞬間、
は飛び起きた。
「え……」
の目に入ってきたのは三途の川でも閻魔様でもなく頭を抑えた男だった。どうやら飛び起きたときに頭がぶつかったらしい。心なしか男の額から湯気のようなものが見えた。
「え、あ?えっと?」
「……の、石頭が!」
額から手を放した男が勢いのまま
の額を弾いた。
「あいた!」
「それぐらいで痛いとか言うんじゃねえ!……shit!魘されてるから心配してやったらこれかよ!」
分けの分からない顔をしている
の顔色を確認すると男は立ち上がり、向かい側へと改めて腰を下ろした。
「おい」
「!!」
「そんなにビビんなよ、オレが虐めてるみてえじゃねえか……。おい、お前」
「は、はい!」
どかりとあぐらをかき、膝の上に肘を置き、頬杖をついた男が改めて
の姿を見つめた。
見れば見るほど分からない格好。
は起き上がり、くしゃくしゃになった髪を気にする様子も無くきっちりと背筋を伸ばし、正座をして男と向かい合う。その佇まいに男は軽く口笛を吹いた。
(ただの女かと思ったら違うな。この座り方、コイツなんかやってやがるな)
合わせた膝の上にハの字型に置かれた両手、先程まで取り乱していたのが嘘かのように大きく息を吸い込み真っ直ぐに男の目を見つめ返す。
(あー、生きてるって素晴らしい……)
男の考えとは別に、
は生きていることへの喜びを噛み締めていた。
最初はぎこちなく始まった男と
の会話だったが、話しやすい男の性格も相まって自分の名前を名乗ってすぐに打ち解けた。
最初は
の話を信じられないような顔をしていたが、
の服や、男の操る南蛮語を簡単に理解している様を見て段々と
の話を信じるようになってきた。理解力が高いのか、理解したフリをしているだけなのかもしれないが、それでも今の
にとっては救いになっている。あの男達のように、この世のものではない目で見ないその男に安心感を持っていたのかもしれない。
「ほんとだよ!一日中開いてる店があるんだって!」
「夜中でもやってんのか?ありえねえだろ、蝋燭の火じゃ店中明るく照らす前に燃えんだろうし、無理だろうが。それに店の奴等だって一日中店なんてやってたら倒れんだろ?第一モノが店からなくなんだろ?」
「や、だからそれは電気って言う蝋燭とは違う明かりがあって、お店の人は……ん~、参勤交代?いやこれは違うかな……。とにかく交代で店番するの!お店のものは、毎日持ってきてくれる人がいるの」
「飛脚か?」
「え、いや、まあ飛脚っぽいところもある、けど」
頭の中に赤いふんどしを触ると幸せになれると聞いた運送会社が浮かんだが、絶対に違うだろう。
「……それで」
「An?」
「ここってほんとにその、戦国、時代なの?なんとか戦国村、なんとかに飛びつこう!見たいなノリじゃなくて?」
「なんとか、なんとかって全然わかんねえだろ、それ。戦国時代って言い方はわかんねえが、天正十三年だ。ちなみに飛びつくって何にだ?」
変なところに食いついてきた。
「ちょんまげした猫に」
「Lie!嘘だろ」
「そんな真顔で!なんで私が違う世界から来たとかは信じてくれたのにこっちは信じてくれないのよ~」
変なところで頑固な男に文句をいいつつも
は笑った。そして不意に、男の顔の右目に視線を止めた。
「何だ?」
自分の顔をじっと見つめ不思議そうな顔をする
に男が訝しげな目を向ける。動かない視線に男は右目の代わりにある眼帯を見ているのだと分かった。驚かれるのも、恐れられるのも、蔑まれるのは慣れている。右目を失ったときに一緒に消えていったものは、あまりにも大きかった。だけど、何故か少しだけ心が痛んだ。慣れているはずのことなのに。
が口を開き何かを言おうとする。
唇を噛み、次の言葉が来るのに備えた。
「あのさっ、ここの時代が天正ってことは、伊達政宗とかいるんだよね?!」
「An?何だって?」
「だから、伊達政宗!奥州の伊達政宗だってば。伊達男の!あー、天正十三年ってことはもう家督継いでるんだよね~。なんかあんたの眼帯見てたら思い出した!」
「おいおい、マジで言ってんのか?」
「え、何が。」
心底信じられなさそうな顔をする男に
は不思議そうに首をかしげる。
「……っはー……」
そして深い深い諦めと呆れを含んだため息が、いつの間にか夕闇に染まっていた空に流れていく。そして雲の影から覗いた月は、見慣れた白い月ではなく、蒼みがかった満月だった。
結局男のため息の意味が分かることなく
は男の白い馬に乗せられ森を歩いていた。
馬に乗りなれていない
の為に男がゆっくりと馬の歩みを進めていく。当の本人はと言えばやれ高いだの、やれ馬の目が可愛いなどとはしゃいでいた。あの死ぬか生きるかで必死になっていた影はもうない。
森を抜け、
が最初に降り立った地へと向かう。既に戦は終わり、今はあの異常な興奮に包まれた雰囲気も無い。ただそこにあるのは、おびただしい数の死体と、折れた槍や刀、そして家紋の描いてある旗が無残に地べたに転がっているだけだった。
背筋が急に寒くなる、これが夢でもなんでもなく現実なのだと
に突きつけているような気がした。
の後ろに乗る男が、恐怖に歪む
の顔を見つめ
(コイツは本当に戦が無い世界から来たんだな……)
馬の腹を軽く蹴り、少し歩みを速める。見たくも無いものをずっと見せようなどと言う不埒な趣味は持ち合わせていない。
「……少しspeedを上げる。振り落とされないようにしっかり捕まってろよ!ha!」
「うええええええええええええええ!?」
ぐん、と早くなった馬に体が付いていかず男に倒れこむ。
「あばばばばばばばば」
「その変な声やめろ!しっかり口閉じとけよ!舌噛むぞ!」
蒼い月が見下ろす戦場を白い馬が駆け抜けていく。
は男に言われた通り口を真一文字に引き結び、馬のたてがみにしがみついた。この揺れがどれぐらい続くのかと考えたとき、急に馬が止まった。
「……宗様!」
「小十郎」
馬の進行方向からやってくる影から声がする。すると男が親しげに名前を呼びかえした。月の逆光になってまだその姿は見えないが、男は
を残したまま馬からおりる。すると小十郎と呼ばれた男も馬をおり、速い足取りで男に近づいた。
「あなたは……一体どこをほっつき歩いてたんですか!」
「堅てえこと言うなよ、小十郎。こっちはghost huntで忙しかったんだ、見逃せよ」
「全く、貴方という方は……ん?あれは?」
小十郎が馬に乗る
の姿を見つけ、男の横をすり抜けて月の光の当たる場へと出てくる。左頬に傷を持った男が
の姿を見るやいなや、脇に差した刀を抜いた。
「なんだ、テメェは」
「わ、私?」
「その珍妙な格好、どこの忍だ?なんでその馬に乗ってる?」
「おい小十郎、やめろ」
「政宗様っ!」
「……まさ、むね?」
『あのさっ、ここの時代が天正ってことは、伊達政宗とかいるんだよね?!』
自分が言った言葉を反芻する。戦国時代で刃物や鉄砲つかって戦っている時代なのだから、別段男の眼帯を気にもしなかった。まさか歴史上の人物に本当に会えるなんて、そんなこと微塵にも思っていなかった。
「Ah?呼んだか、
?」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
戦場に
の遅れた悲鳴が轟き、そして。
「あ」
「……」
は気を失い、生まれて初めて落馬した。
2007/08/22

PR