花
孟徳と花
この子はどんな声で喋って、どんなことで喜んでくれるんだろう?
博望で元譲の軍が玄徳軍によって撤退を余儀なくされた。その一報が孟徳の耳に入ったのは夜半過ぎの事だった。圧倒的な数、優秀な武将。どこをとっても負ける要素など何一つ無かったのに、だ。伝令の話によると『孔明の弟子』と名乗るものが玄徳に献策し、この結果を招いたらしい。
退却に必死で要領を得ないと言う事を前置きにして孟徳に語った『孔明の弟子』の火を使った策には魏の武将たち誰もが息を呑んだ。
圧倒的有利による油断、それを突いての見事な兵の使い方と火計。更に兵糧すら奪う鮮やかさ。完全にこちらの裏をかかれたことに孟徳は悔しさを感じる前に、感心すらしていた。元々玄徳の元には優秀な人材が揃っている。雲長を始め武に長けた一騎当千の武将達、民草からの人望。そして今度は伏龍と呼ばれ大陸一とも囁かれている孔明――の、弟子をも自分の陣営に迎えているらしい。優秀な人材を求める孟徳が喉から手が出るほど欲しいものを二つも、彼は持っていた。
(――欲しいな、孔明の弟子)
伏龍は元々どこにいるかも分からない、居所が分かったとしてもその場にいるとは限らないと雲のような人物だと聞いている。だが孔明の弟子は違う。実体はあるのだし、何よりその力は今回の戦で証明された。実力も折り紙つきなのだ。
しかし今回痛い目を見た以上、また軍事力に物を言わせ攻めた所で結果は同じ所だろう。こちらの兵の数を減らす結果になりかねない。かと言って、このまま玄徳軍を放って置くことも出来るはずもなかった。
(さて、どうしようか)
辛酸を舐めさせられたはずなのに、孟徳の顔は何故か楽しそうだった。
玄徳にも勝ちたい、そして孔明の弟子も欲しい。この二つを成し遂げるには、どうしたらいいか。それを考えるのが、楽しくて仕方が無い。
孟徳の望みは意外な形で叶う事となった。長坂での追撃戦で、橋の前に仁王立ちで立つ武将、翼徳の後ろに不思議な格好をした娘がいたのだ。見たことの無い衣装に、手には書物。玄徳軍には一人、女が戦場に立っているとは聞いていたが見たところ武器を持っている様子も、甲冑すら着込んでいる風には見えない。一番簡単な言葉で言うのならば、町娘が戦場に紛れ込んでいる。その言葉が一番しっくり来た。
「元譲」
「なんだ」
「あれ、見える?」
「あれ……? 女? 玄徳が逃がし損ねた民じゃないのか」
隻眼の元譲は興味も無さげに吐き捨てたが、孟徳は違った。
逃げ遅れた民草の一人ならば、翼徳のそばにいずにすぐに逃げるだろう。それなのにあの娘は逃げもせず、それどころか何か翼徳と話しているように見えた。
あの子には何かある。これは孟徳の勘だった。退こうとする翼徳と娘に向け孟徳が出した命令は、弓兵に射させる事。無論この程度のことであの張翼徳が倒れてくれるとは思わない。孟徳が狙ったのは、背後にいる娘が動き出す事。
予想通りここを危険だと判断した翼徳が娘に下がれと言う。
――娘が、動いた。
弓兵の攻撃が走り出そうとする娘の足元に打ち込まれ、足を取られた娘が橋から川へと落ちた。この急流、そしてこの圧倒的不利の状況で翼徳が助けに動くとは思えない。
弓兵へ新たな命令を発し、娘が落ちた川を孟徳は見つめる。この急流に飲まれてしまえばもしかしたら助からないかもしれない、でも、助かるかもしれない。もし助かったのならば、どうしようか。孟徳はそんなことを考えていた。
翼徳が動けない中、馬を下りた孟徳は元譲が止めるのも聞かず、川へと足を向ける。目を凝らしてよく見ると、水面にふわふわと何かが浮いているのが見えた。
「見つけた」
川に腕を突っ込み、それを引き上げると意識の無い濡れた顔が見えた。遠目ではわからなかったが、その顔はまだ幼さを持っているように見える。娘の腕を引き上げると橋の前に立つ翼徳が何かを叫んでいたが、孟徳の耳には届いていなかった。彼が今興味があるのは、ぐったりと意識を無くしているこの不思議な娘一人だけ。
濡れた体を抱き上げ元譲達がいる所へ戻ると、孟徳の衣装が濡れている事に気づいた武将が娘をこちらに渡すように申し出るが、それを一言で断った孟徳は、娘の体を抱いたまま元譲に尋ねた。
「なあ、この子の名前なんていうんだろうな」
――山田花です。
「……知らん」
「この衣装はどこのなんだろうな」
――えっと、これは制服と言って……。
「知らん」
「早く話してみたい。いつ目を覚ますかな」
――帰りたいです。
「知らん」
目を覚まし、この子は一体何を話すのだろうか。
それを考えるだけで今は楽しい。博望で彼女の姿を見た者がいる。新野で玄徳と共にいたところを見た兵がいる。それだけで好奇心が抑えきれない。
「ねえ、君は俺にどんなことを話してくれるのかな。君と俺は仲良くなれるのかな」
「知らん」
「元譲には言ってないよ。今はこの子に言ってる」
「意識が無い娘に話しかけるな、紛らわしい!」
居城へと戻る間ずっと孟徳は娘の体をずっと抱いたままだった。いつ目覚めてもいいように。
まだ孟徳は気づいてはいない。彼女が、孟徳が求めているものの一つ、孔明の弟子だと言う事に。
乱世の奸雄、曹孟徳と現代の女子高生で、孔明の弟子山田花の物語はここから始まる。

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