休み時間、廊下での喧噪をくぐり抜け次の授業のために教材を取りに理科室に向かう。次の授業は生物だったか。実験までいかないが標本をいくつか教室に 持っていってくれと初老の教師に頼まれた。
勢いで頷いてしまった鷹谷李子は廊下のあちこちから聞こえてくる会話に耳を傾けながら廊下を歩いていく。今年の流行色や、今や世界の、とまで言われるよ うになったファッションデザイナー花椿のことや最近ショッピングモールに出来た新しいブティックの話し、新しい映画の話題。
十五分あるかないかの休み時間でも貴重な親交を深めるために早口で話し続ける。息継ぎすることすら惜しいのか、次々と話題を繰り出していた。
羨ましいと思いながらも教師に頼まれた仕事を遂行するために緩めた足を再び早く動かし始めた。
周りの会話を聞きながら歩いていると、ふと自分の名前が言葉の中に混ざっているのに気が付く。立ち止まって、振り向くとクラスメートの男子が立ってい た。
一応彼の周りを見てみるが、こちらを見ている生徒は今のところ前にいる彼だけ。
「鷹谷」
やはり自分を呼んだのは彼だった。
もう一度今度ははっきり聞こえるように名前を呼ばれた。
「はいはい」
やっと返事が出来た。
自分かと思って返事をして違いましたと言う間違いは何度もおかすものだが恥ずかしいことは回を重ねても変わらない。
「あれ、どうしたの?」
たまに話すことのあるクラスメート。日直で同じになったことがあるぐらいだ。かといって仲が凄くいいわけでもない。今のところ鷹谷が仲が良いのは姫条、 鈴鹿、三原、守村、日比谷、藤井、紺野、須藤、有沢の十名。彼は仲良しには入っていない。
邪険にすることも出来ず腕にはまった時計をちらちら見ながら、相手が話題を切り出して来るのを待った。
「あのさ、さっきのヒムロッチの授業で分からないトコあるんだけど、教えてくれない?」
よく見れば片手に教科書とシャーペンを持っている。
鷹谷李子は頭がいい。全て努力の賜物なのだ。
断ろうとも思ったが、さっき彼が氷室の授業で当てられ放課後までに問題を解いて来るように言われていたのを思い出した。ますます邪険に出来なくなる。確 かにあの問題は難しい。問題が解けたのは葉月、鷹谷を初め十五名いるかいないかだろう。
腕時計を見れば授業まであと十分ある。
「いいよ、さっき当てられた所だよね?」
差し出されたシャーペンと教科書を受け取り、鷹谷李子先生の即席数学講座が開かれた。
一方葉月珪。眠たげな顔をしつつも氷室の授業を終えた彼は教室をのんびりと後にした。次の授業を受けるため、顔を洗って構えようと言うことらしい。あま りに眠りすぎていると優秀だとしても停学になりかねない。ただでさえ氷室には目をつけられている。
教室に鷹谷の姿が無いのを確認し、たかだか五分見ているか見ていないかでも寂しい気持ちになってしまう。顔を洗うついでに鷹谷も探そう、いや、鷹谷を探 すついでに顔でも洗おうと廊下を歩いていく。所狭しと会話に華を咲かせている同級生達の間をすり抜け見慣れた髪を探す。
「あ……、り……」
肩までの髪を見つけ嬉しそうに声をかけようとした葉月の顔が強ばった。
隣に、背の高い男。何やら顔を近づけて話している。手元を見れば数学の教科書とシャーペン。そう言えばあいつはさっき授業で当てられていたなと思いつつ も、葉月には鷹谷と彼の距離が気に入らない。
(……近すぎ)
葉月の視線など気付かずに鷹谷は標本を取りに行くのをすっかり忘れ教えるのに必死になっている。基礎すら理解していないのに応用問題が解けるはずもな い。まっさらで全く使っていないと思われる教科書が、鷹谷の文字で一杯になった。
熱心に教える鷹谷に最初は軽いナンパ目的だった彼も次第に真面目になっていく。授業ではさっぱりの問題も一つ一つ丁寧に教える鷹谷の説明に何となく答え が見えてきた。
「えー……と、ってことは、答えは……」
「うん、そう言うこと。公式使えば簡単でしょ?」
「ああ!なるほど!納得納得!いやー、鷹谷教えんのうまいよ!」
「へへ、そうかな?」
シャーペンを返しながら鷹谷が照れ笑いを浮かべる。最初の目的をすっかり忘れ問題が解けたことに喜んでいる彼につられて喜ぶ。
二人の横に影が迫る。大股で近づいてくる影に今まで話しに華を咲かせていた生徒達の顔が強ばった。
「鷹谷ーそれでさ、今日……うわ!!」
「え、何?どしたの?そんな驚いた顔し……」
「李子……!」
切羽詰まった声。振り向くより早く腕を取られた。さっきまで目の前にいたはずの男の子の姿は遙か後ろ。自分で歩いている感覚は無いのに体は何故か進んで いた。左腕を担がれ引きずられる形になっている。
「は、葉月くん?!」
担いでいる腕を辿って行けば見慣れた顔。いつも通りの顔かと思いきや、あからさまに嫌な顔、不機嫌そうな顔をしていた。何処に連れて行かれるのか、どう して不機嫌なのか分からない。文句を言おうにも聞き耳持たず。
引きずられて連れて来られたのは理科室。丁度標本が持って帰れる、などと言う脳天気な考えは浮かばなかった。
薬品臭い理科室には人体模型、ホルマリン漬けなどが陳列されている。出来ればあまり一人で来たくない教室だが鷹谷にとっては不機嫌さうな葉月の方が怖 かった。
「どうしたの葉月くん、凄い不機嫌そうなんだけど」
「……。」
「葉月くんてば!」
連れて来るだけ連れて来て横を向いてしまう葉月にふつふつと怒りが湧いてくる。何も言わずに目だけは鷹谷を責めている。理由が変わらないのが怒りに拍車 をかけた。
「いきなり腕引っ張ってこんな所連れてくるなんてどういうつも……わぷっ!!」
さっきから言葉を最後まで言えてない気がするのは気のせいか。
今度は腕を引っ張られたのでは無く抱き締められて言葉を続けることが出来なかった。怒って怒鳴りつけようとした鷹谷の体を葉月が包む。強い腕と鼻をくす ぐるフレグランスに阻まれ言葉を続けられない。葉月の体温と強い腕に抱かれて肩の力が抜け体を預けてしまう。このまま行くと顔を上げられキスをされる。
が、今日は違った。抱いた腕を強くするだけで葉月は何もしようとしない。鷹谷の肩口に自分の頭を押しつけ黙ってしまった。
「? 葉月くん?」
いつもと違う葉月の様子に怒りを忘れて心配になって来た。名前を呼んでも返事はない。変わりに抱き締める腕が強くなっていった。
少し、考える。不機嫌を全面に出した葉月の顔を思い出しながら。いつも葉月が不機嫌になるのは大抵鷹谷が誰かと、特に男と仲良さげにしているとオーラす ら感じる程不機嫌さを全面に出して来る。
待ち合わせの時鷹谷にナンパが来た時の葉月など滅多に見られない程不機嫌と怒りを全面に出していた。言葉遣いも荒いので更に驚いたのを覚えている。
その時の状況と、今の状況が合致した。行動は異なるが。
「もしかして……」
「…………。」
「やきもち、焼いてる?」
「!」
抱き締める腕が一際強くなる、言葉で聞かなくてもどうやら、当たったらしい。
怒りが消えて喜びが込み上げてきた。あの無愛想で無口で表情と感情を表に出さない葉月が、公衆の面前で嫉妬心と独占欲を剥き出しにして来た。二人の時だ けならいざ知らず、学校の中にいる時に行動を起こすとは思わなかった。
行動した理由があまりに子供っぽすぎて、笑えて来る。
「顔、見せて」
体を離し肩口に顔を埋める葉月の両頬り手を当て上げさせようとするが力を入れてななか上げようとしない。更に、顔が見たくなった。
「顔見せて、珪」
鷹谷が滅多に呼ばない葉月の下の名前を呼ぶと、力が抜けるのが伝わって来た。さきほどまで動かなかった顔が鷹谷の添える両手によって逆らうことなく顔が 上がっていく。
「……。」
「……。」
柔らかい髪の隙間から覗く静かな目が、見えた。鷹谷の方を見ようとせず、明後日の方向を見つめていた。唇を結んで。その様子はまるで子供が拗ねているよ うに見えた。やきもちを焼いていることがバレてばつが悪そうな顔の葉月に鷹谷は笑いながら顔を覗き込む。
「やきもち?」
再度尋ね直すと今向いている方とは反対の方向に顔を背けた。
その様子が可愛くて、ツボに肺って仕方ない。やきもちかと尋ねるたびに顔を背けて拗ねた顔をする。構ってもらっていない子供に似た行動に、鷹谷は行動で 答えた。
添えた両手を自分の方に引き寄せて頬にキスをする。
「李子……、俺」
頬にキスを受けながら葉月がやっと口を開いた。
ぼそぼそと小さな声だが、顔が近くにある鷹谷にはよく葉月の声が聞こえた。
「……お前が……、あいつと話してるの見て……いても、たってもいられなく……なって」
「うん……」
「ただ、話してるだけなのに……嫉妬して……後先考えないで……ここに連れて来た。ごめん」
頬から顔を離し、葉月の顔を見ると、もう目は逸らしていない。真っ直ぐに鷹谷の顔を見ていた。
素直な言葉に笑みで答える。すると
「だけど」
「へぃ?」
「やっぱり……嫌だ。李子が……俺以外と仲良くするの……。気が済まない」
「気が……って…」
抱き締めている腕が再び強くなった。背中の腕が腰に移動し、そこで腕の鎖を作りがっちりと動けないような体勢を作った。
頬の手はそのままに背中を振り向いたが、近づいてくる影に再び顔を向けると、雑誌でも見たことのないような近い距離に葉月の顔があった。
「……キス」
それだけ言って鷹谷の顔に更に顔を近づけた。
誰も居ない理科室、次の時限にこの教室を使うクラスがいないことを葉月が知っていたか知らなかったのか。葉月の場合使うクラスがあったとしても行動を起 こしそうだが。
一度深く唇を合わせた唇をすぐに離して鷹谷の顔を見る。今度は鷹谷が表情を変えていた。拗ねた顔ではなく、真っ赤な顔で。
「もう一回……」
唇のすぐそばで呟いて、もう一度唇を重ねる。
一度、二度、三度。
気が付けばとうに休み時間は過ぎ、次の授業が始まっている。しかし葉月が離す気配は無い。授業が始まる、そろそろ行かないといけないと言う言葉すら言え ない。
「まだ……」
体をずらして逃げようとしても腰に回された両腕で逃げることが出来ない。やきもち焼きなのは気付いていたがここまでとは思わなかった。ちょっと待っての 言葉より先にまた、唇が降りて来た。
一体どれだけキスをしたらやきもちの分を取り戻せるのか。
生物の時間、二人は教室に戻って来なかった。
噂が立ったのは言うまでもないが、あえて否定はしなかった。何故なら全て事実だったから。
鷹谷李子、本日の教訓。
葉月珪、やきもちの代償はキス17回。
2002.0627

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