目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。
臨時で入ったバイトをこなし家に戻ってベッドに倒れてそのまま眠ってしまった。携帯を手探りで探し、ボタンを押すと液晶画面が時刻を告げた。
午後九時二分。
遠くに見える夜景の光が射し込み薄く体をラインを縁取る。
静まりかえった部屋で一人頭の覚醒を待つ。思考が動き出した。
思考が動き出すと同時に、最初に上がって来たのは『会いたい』と言う気持ち。そして『寂しい』と言う気持ち。浮かんでくる人物は、ただ一人。幼い頃に別 れたあの女の子。そして今同じクラスにいる。
屈託のない笑顔、優しい手と可愛い声。目を閉じてもすぐにその姿は浮かぶ。浮かんだ少女に葉月には知らず知らず微笑んだ。
「……会いたい」
居てももいられなくなり、ベッドから飛び起き脇目もふらず家から飛び出した。
坂を駆け下り、横断歩道を渡り歩道橋を渡り向かうのは頭に浮かんだ鷹谷李子の家。
突発的に会いたくなるのは今回だけではないが、実際行動を起こしたのは今回が初めて。いつもは電話で済ませてしまうが、今日は何かが違った。
声を直接聞きたい。
髪に触れたい。
笑顔が見たい。
抱き締めたい。
走って、走って。そんなに遠くはない距離だが近い距離でも無い。鷹谷の家に着く頃には完全に息が上がっていた。壁に手を付き呼吸を整える。幾分落ち着い た葉月が、インターフォンを押すこともせず、家より少し離れた所に背中を預けた。インターフォンを押さなかったのは、鷹谷の部屋の明かりがついていなかっ たから。今日は火曜日、祝日。友達と出かけているのか、家族を出かけているのか部屋に人の気配は無い。待つのは嫌いじゃない。特に彼女を待つのは。遠足の 前日のような高揚感はなかなか心地がいい。
帰って来るのを待ちながら、どんな顔をして自分を見つけるのを想像しながら待つ。
十分
二十分
三十分
四十分
四十五分
聞こえてくる足音と、話し声。やはり誰かと出かけていたらしい。会話は弾み、ここからでも楽しそうなのが分かる。そういえば花椿吾郎の新作発表会が何処 かのブティックでやっていたような気がする。
外灯の下に鷹谷の姿があらわれた。声をかけようと一歩出した足を、すぐに元に戻した。
誰かと一緒なのは分かっていた。しかし、女友達だと思っていた。そう信じて疑わなかった。外灯の下にいたのは、鷹谷ともう一人。
姫条まどか。
仲よさげに楽しそうに笑い合う二人を、明かりの切れかけた外灯の下呆然と立ちつくしたまま見つめていた。
「送ってくれてありがとう」
「女の子送るんは当たり前や。無理に誘うたのに付き合うてくれてありがとな、李子ちゃん」
「気にしないで」
「それでな、もし良かったらなんやけど、また……」
「え?」
「い、いや、何でもあらへん。今日はホント、付き合うてくれてありがとな。じゃ、また明日!!」
鷹谷の顔を見て、姫条が慌てる。言いかけた言葉を元に戻し、慌てた様子のままその場を走り去った。後ろ姿が闇に消えるまで、見送り、家に入ろうと振り 返った。
「葉月くん?」
切れかけた外灯の下に立つ葉月の姿が目に入る。ちかちかと消えたりついたりする光の下、こちらを真っ直ぐと見る葉月の姿が鷹谷の目に入った。その顔は、 とても寂しそうに見えた。
「どうしたの?何か、あったの?」
寂しそうな顔をしている葉月に心配そうに近づく。点滅する明かりを煩わしく思いながら顔を見上げる。やはり寂しそうな顔をしてこちらを見ている。見間違 いでは無かった。
一向に喋ろうとせず、ただじっと顔だけを見つめてくる葉月に心配が募っていく。
口では何も言わず、瞳だけで見つめる。瞳の色は寂しそうな光と、責めるような光が浮かんでいた。
「葉月くん!!」
鷹谷の問いかけには一切答えず、眉根を寄せ辛そうな顔をすると、踵を返し走って行ってしまう。慌てて追いかけようとしたが、葉月の長い足には追いつか ず、何故突然あらわれ突然消えてしまったのか分からないまま、今度は鷹谷が呆然とその場に立ちつくしていた。
突然会いたくなり、やって来たことも、すぐ傍で姫条と仲良さそうにしているところを見られていたことなど、知らなかった。
祝日開けの水曜日。不規則に入り込んだ休みに、倦怠感が体から抜けていかない。今日は水曜日、日曜日まであと三日はある。抜けないだるさを肩に乗せたま ま登校した。教室に入り何人かと会話を交わし、葉月の元に向かう。昨日のことをはっきりさせておきたい。どうしてあそこにいて、どうして突然いなくなって しまったのか。
机の上で頬杖をついている葉月に近づくと、タイミング良く立ち上がり教室から出ていってしまう。今まで無かった事態に何が何だか分からず、また、立ちつ くしていた。
午前中の授業を終え、今度こそと葉月の方を見ると、もういない。涙を零しそうになる涙腺を引き締めて、耐えた。あれは、怒っているように見えた。自分に 対して。葉月が自分勝手な理由で人を避けたりするようなことはない。怒っているのにはれっきとした理由がある。しかしそれが分からないだけに辛い。
制服のスカートのプリーツを握りしめ、主の居ない机を見た。
午後の授業が始まる。大好きな数学の時間のはずなのに、気分が乗らない。気になるのは葉月のことばかりで、珍しく氷室の話も聞かなかった。流石の氷室も 鷹谷の異変を感じ取り、あまり強くは言わなかった。ついでに葉月も話を聞いていなかった。
今日最後の終業のベルが鳴る。そのままホームルームに入り事務連絡を終えると一斉に教室が騒がしくなる。今日も一日御苦労様と互いを労い、夕方の街に繰 り出していく生徒達。
廊下にも賑やかな声が響いていたがやがてそれも無くなってしまう。人気のない教室には、鷹谷以外は残っていない。
朝、避けられ、昼、避けられ。
二度も避けられた。三度目もきっと避けられていたに違いない。誰も居ない教室で、もう涙を我慢することもない。俯くと涙が落ちていく。机に水玉がいくつ も出来る。
声を押し殺し、嗚咽を繰り返す。好きな人に、理由も分からず避けられるのがここまで辛いことだったなんて。自分が悪いのなら、理由を言ってくれれば何か しらのリアクションは出来るのに。
「っ……ふ……」
唇の隙間から漏れる息が音になる。
両手で顔をおおっても、涙は指の隙間から落ち続ける。
何故
どうして
同じ言葉が頭を回る。
「…………」
背後に、人の気配。
誰かまだクラスにいた、それか、教室に戻って来た。今更取り繕うにもこの赤い目を向ければどうしていたかなどすぐに分かってしまう。顔を覆う両手は外し たが、俯いたままの顔はそのままで、相手の言葉を待った。
先生なら早く帰りなさいと言うだろうし、他の誰かならどうしてまだ教室にいるのか尋ねてくる。その言葉を、待った。
「李子」
教室にいる人間が声をかけて来た。
だがその声に鷹谷は驚愕した。赤い目を隠すのも忘れ、顔を上げて振り向く。
絶対にいないと思っていた、葉月が背後に立っていた。
責めた光こそ無かったが、やはり寂しそうな目をしたままだった。
慌てて立ち上がり葉月に向き直り、口を開く。
「葉月くん、私聞きたいことが……」
言葉を、遮る。
「姫条と出かけてた所……見た」
「あ……」
葉月があの時あの場所で見たのは、楽しそうにしていた姫条と鷹谷の姿。自分はただ仲のいい友達と出かけたぐらいの気持ちでいたが、葉月にしてみればそれ は心を害するのに充分な材料。
理由が分かり、一度乾いた頬がまた濡れる。考え無しに行動してしまった。涙は葉月への申し訳なさではなく自分への怒り。
彼がどんな男か知らないはずは無いのに。人一倍ナイーブで、傷ついたことを顔に出すことは少ないけれど、繊細に出来ていることを知っていたはずなのに。 仲良くなり、相手を思いやり、気を使う気持ちを忘れてしまった。
あの時の瞳、顔を思い出し、更に涙が頬を流れていく。
「ごめ……っ……ごめんね、葉月く……ごめん、私……葉月くんのこと、傷……付け……っ」
伝えたいことの半分も言えない。嗚咽で喉がつまり言葉が途切れ途切れになる。一つだけでは言葉にならない音が、教室の床に転がって消えていく。
とうとう何を言っているのかすら分からなくなる。ただ繰り返し繰り返し、葉月への詫びを口にした。顔が見れず、また両手で顔を覆ってしまう。目を見て謝 らなければならないのに、あの目をまた見ると思うと怖くて出来なかった。あの目に、嫌悪感を抱いた光は見たくない。
肩を震えさせ泣き続ける鷹谷に葉月の腕が伸びる。肩に触れることはなく、顔を覆う両手に手を伸ばし片方の手首を緩く握った。
「李子……」
名前を呼ばれる。
仲良くなって、やっと名字でなく名前で呼んでくれるようになったばかりなのに。全てが後悔全ての自分が許せない。
尚も泣き続ける鷹谷に手首を握る力が少しだけ強くなる。決して引き剥がそうとしているわけではないが、顔を覆う手が邪魔なのは確か。
「怒ってる、わけじゃない……だから、泣くな。泣かれると……辛い。」
片方の腕も伸ばし、手首を握る。そのままそっと、横に開かせて、両手首を握ったまま、下に下ろした。俯いた顔が上げられる。涙で濡れた頬と、泣き腫らし た潤んだ赤い目が葉月を見る。涙は、まだこぼれている。
傷つけられたのは自分の方なのに、こちらが悪いことをした気になってしまう。こんな時に不謹慎だが、惚れた弱みというやつだ。
「ごめんなさい、私……ごめんな……さい」
泣き続ける彼女に顔を寄せる。瞳から零れ落ちる涙を唇で受け止めた。
泣かれると辛い。悲しみに歪む顔を見たくはないのに、どこかで喜んでいる自分がいる。彼女がこんな顔をするのは、自分だけのため。
頬に手を移し右目の涙は葉月の唇ですくい、左目は親指で涙を拭う。
「怒って、ない。ただ……淋しかったんだ。おまえは俺のものでもないのに……おまえが俺の知らない所で、誰かと、おまえが笑ってるのを見て……」
あの時走り去った理由。
会いたいと思って家に行った時葉月が見たのは姫条と楽しそうにしている鷹谷の姿。自分が会いたいと思っている時はきっと相手も会いたいと思ってくれてい ると言う甘い幻想を無意識にどこかで思っていた。無意識なだけに衝撃も強かった。覚悟をしていなかっただけに。
あやすように背中を撫でて泣きやむのを待つ。自分の方が慰めて欲しいぐらいなのに、泣いているのを見て逆転してしまった。
しかし悲しいばかりではない。これだけ自分のことで泣き、心を乱してくれる。それだけ自分を大切にしてくれていることを感じた。あやしていた両手をその ままにそっと抱き締めてみる。小さな体を葉月の熱が包む。
泣きやむまで
赤い目がなくなるまで
ずっとこのまま抱き締めていよう
涙の多さと、泣き続けている時間が、鷹谷の葉月への想いの強さの時間。
2002.0703

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